陶器

 飲み込んでからどれくらいで嘔吐するかのタイミングを計る。もちろんすぐの方が色鮮やかだけどそれはそのものの形のままで胃液が若干混じる程度で、鮮やかなだけに何を食べたか丸わかりだから恥ずかしいし、それになによりつまらない。白く磨き上げた便器にそれをぶちまけ今日の成果をまじまじと見る、きっかけになったさっき食べたスープ、それに絡んで汲み上げられたスパゲティ、昨日食べた白米に煮物、三年前のグレープフルーツ。丹念に解いて観察する、この行為がわたしとても好きで、だからきみにもわたしの吐瀉物愛して欲しいのだけど、一般的にこの行為が眉を顰められる類のものだと知っているからそんなことは言わない。 

「ねぇわたしのどこがすきなの?」ってきみに聞いたことがある、そうしたらまるでつまらない男の子みたいな答えが返ってきてびっくりした。外見や髪の毛、色素の薄い目にやさしいところ、束縛しなくて大人しく口数が少なく買い物が長くない、「何よりぼくを理解してくれている」。わたしのそういうところはね、いろんな人がすきになるよ。自分の持ち物の価値をわたし適度に知っている、過剰評価はしてないけれど利用方法と効果範囲はわたし十分知っている。そういうものは道具と一緒で、卑下も楽観視もしなければ、適切にふるえるものなのだ。わたしの特別な男の子には、そんなつまらないこと言ってほしくなかった。外見はわたしのものだけれどわたしじゃないし、わたしがきみを理解してるのはわたしがそうしたいと思ったから、束縛しないのはそうしたいから、信頼してるのもそうしてるから。きみのことが好きで起こる自然発生的なそれらってのは認められるのが当然で、わたしが本当に好きと言われたいのは、わたしの吐いた吐瀉物だ。


 今わたしの住んでいる家は小さくて狭くて古い。釣り合わない家賃を払いわたしがここに住んでいるのはなにを隠そう、トイレが気に入ったからだ。適度に広くて狭くて暗く、でも便器は安定し清潔、わたしの全部を預けても受け止めするりと飲み込むそれがわたしにはどうしても必要で、でもこんなこと人に言ったら「馬鹿だ」とあしらわれるのもちゃんと知っているしきみだって例外じゃないことも知っていて、でもわたしはそれがどうしても好きで、だからここを認められないと、ほんとうに「わたし」が好かれている気がしないのだ。
 世の中には“変態
と呼ばれる人がいて、わたしの吐瀉物の価値は、それらの人には受け止められる。昭和に取り残されたような路地裏で、わたしはひっそりそれを売る。わたしの外見や経歴や、性器にすら興味がないおじさまの、吐瀉物を供物のように受け取る両手をわたしはひっそり見つめながら、ああ、この手がきみのものだったらと思う。きみは変態じゃないしわたしのこれは汚いし、わたしはきみのことが好きでつまりは汚したくない。心は決まっているはずなのにどうしても満たされないのはきっと、わたしのこれを見つけて欲しいからで、ともすれば啜ってほしいし愛してほしい、わたしの顔にも体にも、性格にだって興味なくていい、ただこれだけが好きだよって、いっそのことそう言ってくれたっていい。 




 肥大する自尊心に押しつぶされそうになってまた吐いた、隠れるようにしてまた吐いた。一人で吐いて一人で愛でて、一人でひっそり下水に流す。気持ち悪いし醜いの、でもわたしどうしても、これがわたしな気がするの。