蜂蜜

 ハチミツが入ったカフェラテはすごく甘くて、すぐにおなかがいっぱいになる。店内は適度にざわざわしていて、わたしのねむけをうまくくすぐる。彼の声がどんどん遠くなってしまって、わたしはあくびをかみ殺す。

「聞いてる? 疲れてる?」

「ごめん平気、なんだっけ」

「だから、今度の日曜僕も休みだから、どっか行こうか?」

 本当はどこにも行きたくないって、なんだかわたし言い出せなかった。彼の休日とわたしの休日は大抵いつもかみ合わなくて、だけどわたしはわたしの休日が自分だけのものだということに、けっこう満足していた。お風呂掃除したり洗濯したり爪にやすりをかけたりお弁当のおかずをまとめて作って冷凍したり、そういうことをのんびりこなすと、なんだか地面をしっかり踏みしめているようで、すごく安心した。

 付き合い始めは何をおいても彼と一緒にいたかったから、たとえお弁当が作れなくなって食費がかさんだり交通費がかかったり睡眠時間が削れたりしても、それでも全然しあわせだった。でも例えば、毎日付けてる家計簿や散漫する仕事に対する注意力、確実に濃くなるクマや乾燥のせいだけではない肌荒れに直面するにつけ、ああ恋の力でも太刀打ちできないものはあるんだなって、わたしは早々に兜を脱いだ。

「きみさ、この前リニューアルした水族館に行きたいって言ってなかった? デートらしいデートってずっとしてないしさ、日曜日行ってみようよ」

 気を使ってくれている彼の言葉に対しての恋人としての正しい答えを、わたしはすぐにはじき出す。「そうだねすごく行ってみたかった、でも君が忙しそうだったから一緒に行けるの待ってたの、嬉しい」頭の中にはいっぱいになった洗濯物かごと、残り少なくなった食器用洗剤と柔軟剤の容器が浮かぶ。昼間から湯船を溜めて、アユーラの入浴剤を入れて、お洗濯して、買い物行って、ビール飲みながらご飯を作って、お昼寝をしてテレビ見て、そういうふわふわしたわたあめみたいな頼りない計画が全部しぼんで溶けていくのを目の端で見る。好きなひとと一緒にいられる休日、大好きなひとが隣にいてくれる休日。それは休日にとって一番望むべき姿のように思えるのに、しぼんで溶けたそれらがべたべたして、わたしの指先が黒く汚れる。

 

 ふと、足元がなにかにからめられてることに気付く。恋人との貴重なティータイムだというのにわたしは少し眠くて、そのせいで体が重たい感じがしているのかと最初は思った。視線を落として足元を見ると、琥珀色のシロップみたいな液体が、喫茶店をひたひた満たしていくところだった。

「ねえ、これ何かな」

「? 何って、なにが? それよりさ……」

 “これに気付いているのはわたしだけだ”と、ベタな真実にたどり着く。恋人も、他のお客さんもウエイトレスも、誰一人琥珀色の液体を気にとめない。疲れたわたしの幻覚かなと、こっそり頬をつねってみたけどバッチリ痛くて、それどころか甘いにおいが喫茶店中をどんどん満たしていく。頭がおかしくなっちゃったのかな、それとも疲れて過ぎているのかな、恋人は戸惑うわたしに気付かず話し続ける。わたしが相槌を返さなくなっても、頷きすらしなくなっても、顔も見ずひたひた水位を上げる琥珀色を見つめ続けても、全く気付かず話し続ける。琥珀色がキラキラしていて綺麗で、しかも立ち上るにおいがあんまり甘くておいしそうだから、わたしは思わずそれを指ですくって、ぺろりとひとくち舐めてみた。

 

 ハチミツだった。

 

 べたべたしていてつるりと粘度があって、喉が少しだけ痛くなるような甘み。汚く溶けて指先についたわたあめみたいなわたしの計画と混じってしまって、でもそれが絶妙においしい。なんだか拾い食いをしているような感じだし、すごく行儀が悪いかなとは思ったけれど、美味しかったのでひとくちではやめられなかった。明らかに態度のおかしい(だって、屈みこんで弁慶あたりの高さの空間を人差し指で掬ってそれを口に運ぶだなんて、正しいデートをしている正しい恋人のすることではない)わたしに彼は気付かない。なんだか愉快になってしまって、彼のブラックコーヒーに、それを掬って入れてみた。ごくりとそれを飲んだ瞬間、彼は一瞬怪訝な顔をして、口の端を僅かに緩める。ねえそのコーヒー甘いでしょ、わたしがいまそれ甘くしたの、何したと思う? ハチミツ入れたんだ。どこにあったかって? ここにこんなにひたひたしてるよ。そういう言葉は心の中にしまったまま、わたしの人差し指は、床と、彼のコーヒーカップを往復する。