神奈川くんとわたし

『一人、もしくは知らない男の子と二人でプラネタリウムに行きたいな』って、朝起きたら神の啓示のようにひらめいたからわたしはそれを実行に移した。速やかに、素早く、後者の啓示を。

 知らない男の子を誘うのが難しかったので、わたしは条件を緩めることを自分に許可する。『知らない男の子』から、『よく知らない男の子』に。そうして白羽の矢が立ったのが、神奈川くんというわけだ。

 そう説明したわたしに、神奈川くんは沈黙を返す。受話器の向こう、彼の困惑が文字通り手に取るように伝わる。

 

 神奈川くんは去年の4月、わたしの靴箱にラブレターを入れた。わたしは沈黙をもってその恋文に返事をしたけど神奈川くんは気を悪くする様子もなく、廊下で目が合えばニコリと微笑んでくれたし、他の男子のようになにかをいいふらすということもなく、わたしはひそかに好感を抱いていた。だけどそれは恋愛という性質のものではなく、真夜中にしんしんと降り積もる粉雪に対する親密さのようなものであり、高校生の男の子にとって喜ばしいものかどうかはわかりかねたので、わたしはそのまま沈黙を貫いた。でも今朝、わたしの神様から啓示を受けたとき、神奈川くんの顔がパッと浮かんで、だからわたしは後者を選んだ。ラブレターに書いてあったメールアドレスに「電話番号教えて」とだけメールをし、返ってきた数字だけのメールに神奈川くんの戸惑いを感じながら、電話をかけて手短に用件を話した。「ねえ明日プラネタリウムに行きませんか、そして無言のデートをしましょう」

 

 目星をつけたプラネタリウムは繁華街の駅にあった。東口だか東南口だか西武東口だかわかりづらい名称の駅の出口にわたしが到着した時には神奈川くんはもう来ていて、宝くじ売り場の前でiPhoneをつまらなそうにいじっていた。その姿からは緊張は読み取れなくて、わたしはますます彼に好感を覚える。声をかけたわけでも手を振ったわけでもないのに静かに近づくわたしを気配で察し、神奈川くんは顔を上げる。

 神奈川くんの前に立ち、無言で10秒見つめ合う。そうしてわたしがコクリと頷くと、神奈川くんはわたしの手をそっと握った。

 

 休日の繁華街は混んでいて、手をつないでいないとすぐにはぐれてしまいそうで、つまりは手をつなぐという行為はここでは二人がはぐれないための一番効率的な方法で、要するにわたしも神奈川くんも、手をつないでいることには何の感慨も抱かなかったと思う。人の波をすり抜けてようやく到着したプラネタリウムの、ロビーでわたしたちはそっと手を離す。別々に受付に向かい、違う窓口でチケットを買う。「おとな一枚」がシンクロして、わたしは口元だけで静かに笑う。中に入ると思ったよりも広くてわたしは感心したのだけれど、神奈川くんの顔をそっと盗み見たら思ったより狭くてびっくりしたという顔をしていて、わたしはそこでもこっそり笑った。

 

 プラネタリウムは退屈だった。退屈な暗闇、退屈なアナウンス、退屈な音楽、退屈な宇宙、退屈じゃない右手。わたしの右手は暗闇の中でしっかり神奈川くんの左手と繋がっていて、退屈な宇宙のなかでここだけが退屈じゃなくて、昔家族でプラネタリウムに来たときは地球や人間やひいてはわたしの小ささを実感したはずなのに、わたしの右手つまり神奈川くんの左手は、なんて大きな存在なのだろうとおののいた。

 

 プラネタリウムのプログラムが終わってわたしと神奈川くんはそっと席を立つ。うっすら夕暮れの繁華街はまだまだ元気で、わたしと神奈川くんは人波を逆流するように駅に戻った。利用する路線が違うので、宝くじ売り場の前でわたしと神奈川くんはそっと手を離す。また10秒見つめ合って頷き、それぞれの改札に歩く。また明日からわたしと彼は、廊下で目が合うとニッコリ会釈をするだけの関係に戻り、会話をしないまま、3月の卒業式を迎える。

 

陶器

 飲み込んでからどれくらいで嘔吐するかのタイミングを計る。もちろんすぐの方が色鮮やかだけどそれはそのものの形のままで胃液が若干混じる程度で、鮮やかなだけに何を食べたか丸わかりだから恥ずかしいし、それになによりつまらない。白く磨き上げた便器にそれをぶちまけ今日の成果をまじまじと見る、きっかけになったさっき食べたスープ、それに絡んで汲み上げられたスパゲティ、昨日食べた白米に煮物、三年前のグレープフルーツ。丹念に解いて観察する、この行為がわたしとても好きで、だからきみにもわたしの吐瀉物愛して欲しいのだけど、一般的にこの行為が眉を顰められる類のものだと知っているからそんなことは言わない。 

「ねぇわたしのどこがすきなの?」ってきみに聞いたことがある、そうしたらまるでつまらない男の子みたいな答えが返ってきてびっくりした。外見や髪の毛、色素の薄い目にやさしいところ、束縛しなくて大人しく口数が少なく買い物が長くない、「何よりぼくを理解してくれている」。わたしのそういうところはね、いろんな人がすきになるよ。自分の持ち物の価値をわたし適度に知っている、過剰評価はしてないけれど利用方法と効果範囲はわたし十分知っている。そういうものは道具と一緒で、卑下も楽観視もしなければ、適切にふるえるものなのだ。わたしの特別な男の子には、そんなつまらないこと言ってほしくなかった。外見はわたしのものだけれどわたしじゃないし、わたしがきみを理解してるのはわたしがそうしたいと思ったから、束縛しないのはそうしたいから、信頼してるのもそうしてるから。きみのことが好きで起こる自然発生的なそれらってのは認められるのが当然で、わたしが本当に好きと言われたいのは、わたしの吐いた吐瀉物だ。


 今わたしの住んでいる家は小さくて狭くて古い。釣り合わない家賃を払いわたしがここに住んでいるのはなにを隠そう、トイレが気に入ったからだ。適度に広くて狭くて暗く、でも便器は安定し清潔、わたしの全部を預けても受け止めするりと飲み込むそれがわたしにはどうしても必要で、でもこんなこと人に言ったら「馬鹿だ」とあしらわれるのもちゃんと知っているしきみだって例外じゃないことも知っていて、でもわたしはそれがどうしても好きで、だからここを認められないと、ほんとうに「わたし」が好かれている気がしないのだ。
 世の中には“変態
と呼ばれる人がいて、わたしの吐瀉物の価値は、それらの人には受け止められる。昭和に取り残されたような路地裏で、わたしはひっそりそれを売る。わたしの外見や経歴や、性器にすら興味がないおじさまの、吐瀉物を供物のように受け取る両手をわたしはひっそり見つめながら、ああ、この手がきみのものだったらと思う。きみは変態じゃないしわたしのこれは汚いし、わたしはきみのことが好きでつまりは汚したくない。心は決まっているはずなのにどうしても満たされないのはきっと、わたしのこれを見つけて欲しいからで、ともすれば啜ってほしいし愛してほしい、わたしの顔にも体にも、性格にだって興味なくていい、ただこれだけが好きだよって、いっそのことそう言ってくれたっていい。 




 肥大する自尊心に押しつぶされそうになってまた吐いた、隠れるようにしてまた吐いた。一人で吐いて一人で愛でて、一人でひっそり下水に流す。気持ち悪いし醜いの、でもわたしどうしても、これがわたしな気がするの。

蜂蜜

 ハチミツが入ったカフェラテはすごく甘くて、すぐにおなかがいっぱいになる。店内は適度にざわざわしていて、わたしのねむけをうまくくすぐる。彼の声がどんどん遠くなってしまって、わたしはあくびをかみ殺す。

「聞いてる? 疲れてる?」

「ごめん平気、なんだっけ」

「だから、今度の日曜僕も休みだから、どっか行こうか?」

 本当はどこにも行きたくないって、なんだかわたし言い出せなかった。彼の休日とわたしの休日は大抵いつもかみ合わなくて、だけどわたしはわたしの休日が自分だけのものだということに、けっこう満足していた。お風呂掃除したり洗濯したり爪にやすりをかけたりお弁当のおかずをまとめて作って冷凍したり、そういうことをのんびりこなすと、なんだか地面をしっかり踏みしめているようで、すごく安心した。

 付き合い始めは何をおいても彼と一緒にいたかったから、たとえお弁当が作れなくなって食費がかさんだり交通費がかかったり睡眠時間が削れたりしても、それでも全然しあわせだった。でも例えば、毎日付けてる家計簿や散漫する仕事に対する注意力、確実に濃くなるクマや乾燥のせいだけではない肌荒れに直面するにつけ、ああ恋の力でも太刀打ちできないものはあるんだなって、わたしは早々に兜を脱いだ。

「きみさ、この前リニューアルした水族館に行きたいって言ってなかった? デートらしいデートってずっとしてないしさ、日曜日行ってみようよ」

 気を使ってくれている彼の言葉に対しての恋人としての正しい答えを、わたしはすぐにはじき出す。「そうだねすごく行ってみたかった、でも君が忙しそうだったから一緒に行けるの待ってたの、嬉しい」頭の中にはいっぱいになった洗濯物かごと、残り少なくなった食器用洗剤と柔軟剤の容器が浮かぶ。昼間から湯船を溜めて、アユーラの入浴剤を入れて、お洗濯して、買い物行って、ビール飲みながらご飯を作って、お昼寝をしてテレビ見て、そういうふわふわしたわたあめみたいな頼りない計画が全部しぼんで溶けていくのを目の端で見る。好きなひとと一緒にいられる休日、大好きなひとが隣にいてくれる休日。それは休日にとって一番望むべき姿のように思えるのに、しぼんで溶けたそれらがべたべたして、わたしの指先が黒く汚れる。

 

 ふと、足元がなにかにからめられてることに気付く。恋人との貴重なティータイムだというのにわたしは少し眠くて、そのせいで体が重たい感じがしているのかと最初は思った。視線を落として足元を見ると、琥珀色のシロップみたいな液体が、喫茶店をひたひた満たしていくところだった。

「ねえ、これ何かな」

「? 何って、なにが? それよりさ……」

 “これに気付いているのはわたしだけだ”と、ベタな真実にたどり着く。恋人も、他のお客さんもウエイトレスも、誰一人琥珀色の液体を気にとめない。疲れたわたしの幻覚かなと、こっそり頬をつねってみたけどバッチリ痛くて、それどころか甘いにおいが喫茶店中をどんどん満たしていく。頭がおかしくなっちゃったのかな、それとも疲れて過ぎているのかな、恋人は戸惑うわたしに気付かず話し続ける。わたしが相槌を返さなくなっても、頷きすらしなくなっても、顔も見ずひたひた水位を上げる琥珀色を見つめ続けても、全く気付かず話し続ける。琥珀色がキラキラしていて綺麗で、しかも立ち上るにおいがあんまり甘くておいしそうだから、わたしは思わずそれを指ですくって、ぺろりとひとくち舐めてみた。

 

 ハチミツだった。

 

 べたべたしていてつるりと粘度があって、喉が少しだけ痛くなるような甘み。汚く溶けて指先についたわたあめみたいなわたしの計画と混じってしまって、でもそれが絶妙においしい。なんだか拾い食いをしているような感じだし、すごく行儀が悪いかなとは思ったけれど、美味しかったのでひとくちではやめられなかった。明らかに態度のおかしい(だって、屈みこんで弁慶あたりの高さの空間を人差し指で掬ってそれを口に運ぶだなんて、正しいデートをしている正しい恋人のすることではない)わたしに彼は気付かない。なんだか愉快になってしまって、彼のブラックコーヒーに、それを掬って入れてみた。ごくりとそれを飲んだ瞬間、彼は一瞬怪訝な顔をして、口の端を僅かに緩める。ねえそのコーヒー甘いでしょ、わたしがいまそれ甘くしたの、何したと思う? ハチミツ入れたんだ。どこにあったかって? ここにこんなにひたひたしてるよ。そういう言葉は心の中にしまったまま、わたしの人差し指は、床と、彼のコーヒーカップを往復する。

20121206-01

アニメや小説やそういうものの感想じゃないものをかきたくなったので、ブログをつくりました。つまりはそういうことです。
でもどうしようかなとまよってる。ブログサービスすごくたくさんあるし難儀。