横顔

「逃げちゃおうか」と発したのはわたしの唇、無意識でポロリ出たそれに自分で驚き、そうして真剣に考える。このままこの子の手を引いて逃げてしまおうかと思う、このままこの子の手を引いて逃げてしまうことを考える。中卒でも2人分不自由なく食べて行ける仕事はあるのか、病気になって入院なんてことになったらどうしたらいいのか、当座無職でも住む場所はすんなり見つかるのか、明日の塾の宿題わたしは今夜やらなくてもいいのか。命をかけてもこの子を守って2人で生きて行くんだという真摯な思いはあっという間に現実に負ける、指先からそれが伝わり「帰ろっか」と彼女は言う。

 わたしのことを今好きだというのが本当だとしてもきっと、普通に結婚して子供を産んだりしたくなる時が来る、そうしたらわたしは重荷にしかならなくて、だからわたしが今するべきは、彼女を家まで送って大人しく帰宅して、明日の宿題をすることだ。

 

 男の子と違っておんなのこのそれはやわらかくて安心すると彼女は言う、男の子の手は大きくてごつごつしていて指も太い、だからなんだか居心地が悪いと言う。左側にするりと位置取りなれたしぐさで指と指を絡める彼女には、最初の頃のぎこちなさなど1mmも残っていない。次に誰かを好きになったとしても無邪気にするりとその人の手をとるのかなと苦しくて死にたくなる、わたしの手じゃないいろんなものを、彼女は自分の意思でつかむ。

 ナントカ君に告白されてこの前遊んだ、ナンタラ君とはたまに二人で会ってはいるけどごはんを食べているだけだよ。わたしが心配しないようにといちいち報告してくれるのはうれしいことなのかもしれないけれど多分彼女はわたしがナントカ君やナンタラ君について調べて家で一人で嫉妬していることを知らない。そして彼女に告白したナントカ君やナンタラ君とこっそり知り合って、わたしが彼らと寝たりしていることにもきっと気付いていない。何をしたいのか誰かに聞かれてもわたしきっと答えられない、わたし自身にだってわかっていない。

 全部知ったら彼女はわたしのことを嫌いになるかな、いっそのことそうなってしまったらいいのに。なんにもしないで忘れられるより、嫌われてしまったほうが諦めがつくんじゃないかなと思うのにそうできないのは、もしかしたら高校も大学もその先も、彼女の右側にいられるんじゃないかというばかみたいな希望を捨ててしまえないせいで、わたしは本当にどうしようもなく、絶望的に頭が悪いのだ。